Tanti Anni Prima

雑食なエンジニアの本棚

【蔵書No. 19】イヤミス中毒という沼 | ルビンの壺が割れた

会社の同期というものは非常にありがたいもので、その人伝いでしか知り得ない作品というものがたまにある。自分が細々と読書を続けていることを知っていた同期が「ルビンの壺が割れた」を紹介してきたのはある日の昼食の事だ。口から先に生まれたようなその同期に約一時間みっちりルビンについて語られることになるのだが(ほとんどネタバレなし)、その記憶が頭の片隅に残っており、数日後に書店でふと見かけて何気なく手に取った。自分は流行に対する興味というかリサーチをそもそもしないので、あまり話題作というものに自発的に手を付けることがない。「なんだか体に悪そうな色合いの表紙だな。」とひょんな気持で読み始めたのが、これがイヤミスの沼をさらに深めるきっかけになった。

読んだ本

・タイトル:ルビンの壺が割れた
・著者:宿野かほる
・読みやすさ:9.5/10点(これが10点満点になることはあるのだろうか...)

ざっくり内容

まず大方予想できるかも知れないのだが、本書の表紙になっている図形はルビンの壺と呼ぶ。ある時は単なる壺に見え、またある時は2人の人間が向かい合っているように見える目の錯覚である。目の錯覚をどこかで体験したことがある人ならば誰もが何度か目にしたことがあるだろう。だが、実際にこの図形の名称を知る人は少なそうである。パンの袋を留めておく例のいかがわしいプラスチックと同レベルだろう(ちなみに『バッグ・クロージャー』という)。そんな半ば強烈なタイトルがつけられている本書だが、かつて知人関係にあった男女2人がSNSで再開し、メッセージ型式でやり取りが始まるという導入である。当時の2人の馴れ初めがあり、2人の交友関係が徐々に深まり、如何にお互いに惹かれ合っていったのか、昔話に花を咲かせるようにSNSで振り返っていく...そんな甘酸っぱさと時にちらりと見せる切なさを兼ね備えた、純愛ラブストーリーである。
...とでも言うと思っただろうか。
はっきり言う。
そんなわけがないだろう。
タイトルにもあるが、今から100年前に考案されてなお歴史上割られてこなかったあの壺がいよいよ割られることになるのだ。小説界隈で見てもかなり短めの本作品だが、その短さに油断せず、怒濤の展開に覚悟を持って読むべきである。ジェットコースターの上りでゆっくりのほほんとしていたかと思えば、気づけば信じられない速度で急降下し、体を真横にされ、挙げ句の果てに一回転させられる。読んだ後は、まるで道中いきなり車に泥をかけられて全身ずぶ濡れになり、湿った衣服がいつまでも身体にへばりついているような、素晴らしい気持ち悪さに包まれることになるだろう。

感想云々

 読んだ後に瞬間的に持った感想は「闇堕ち版レインツリーの国?」というものだった。レインツリーの国を読んだのは大分昔のことであるが、まずメッセージのやり取り型式であることに共通点を感じた。レインツリーとの違いは、あちらが終始ほのぼのした内容であったことくらいだろうか。もちろんレインツリーでも途中には多少なりとも男女のいざこざがあったりする。それでも大きく不幸な事にはならないし、最後には幸せが待っているのだろうなと、大船に乗った気持ちで読んでいた。そういうハートフルな作品もいいのだが、それとは対照的に内容をジェットコースターにしてしまった作者の度胸には感心するしかない。読了後に自分を捉えたのは前述のいい意味での気持ち悪さと、物語の発想力に対する敬意であった。ところでレインツリーでは感想投稿サイトが、ルビンの壺ではFacebookが引き合いに出されている。これらは作品が書かれた当時の最先端のプラットフォームのひとつだろう。しかし、これらのプラットフォームは時代が進む中で徐々に淘汰されていくものでもある。そんな中でこれらの作品を読んで「当時はこれが最先端だったな...」と想起出来るのは、ある意味小説としての魅力かもしれないと感じた。

 そもそも、どうしてイヤミスに手を出してしまうのだろうか。自分が昔はあまり読書に熱心ではなかったから認知していなかったのもあるが、この手のイヤミスは最近増えてきている気がする。というか、ジャンルとしての作品母数が増えるというよりも、世間が取り上げる率が上がってきているように感じるのだ。元来イヤミスは「読んだ後にイヤな気持ちになるミステリー」という意味合いである。読了後、そこにピュアな爽快感やほっこり感はない。それなのに手を出してしまうのは、よく考えるとおかしいと思うのが自然である。そんなイヤミスに興味を持ち始めた経緯を思い返してみると、自分が現在に至るまでSNSに浸かっていった度合いと比較的リニアになっていることに気付く。昔に比べて現在はTwitterやYouTubeなどにより、数多の人間の行動や思考を簡単に拾うことが出来るようになった。これ自体は非常に良いことである。ただそれと同時に、本来見えなくても良い部分も拾うようになってしまったのも事実である。誹謗中傷、炎上などがその類であろう。そういう負の情報達が意識してなくても目に飛び込んでくるようになると、いつしか「自分とは全く関係のないノーリスクなところで誰かが貶められている。」という構図に、ある意味での痛快さを覚えるようになってしまったのではないだろうか(信じ難いが、自分だってそのひとりの可能性もあるのだ)。そしてスマホを開けばそういう情報がすぐに手に入る今日では、もはやその情報を浴び続けて半ば中毒になっている人だっているだろう。極論ではあるが、徐々に人々は小説に対してもそういう「自分にとってなるべくリスクなしの、できれば簡単な」痛快さを求めるようになっていったと思えて仕方ないのだ。そんな思いを巡らせていると、自分が本書を読んでミステリーの真相を暴いていたのではなく、自分が内に秘めたイヤミスに求める負の期待を暴かれていた気がして、ぞっとするのである。嗚呼、怖い怖い。

終わりに

本作品は当然フィクションであるが、その内容は探せばどこかで起こっていそうな気がしなくもない。その日常と非日常のギリギリのラインを攻めているのも、本作品の魅力なのだろうか。


それでは。