Tanti Anni Prima

雑食なエンジニアの本棚

理系かぶれの紫陽花巡り3年目

京都の宇治では平等院という世界遺産の称号をほしいままにする横綱が目立つが、同時に紫陽花の名所でもあるという認識が自分の中で強まりつつある。学生の頃は京都なんて修学旅行シーズンの紅葉の季節しか行く機会がなかったものだが、仕事の関係で関西に半永久的に身を置くことになったのも何かの御縁だろう。「今のうちに行けるだけ行っときな」という神の思し召しと勘違いしてひたすらに京都に赴く自分であるが、桜、紅葉、梅と並んで毎年楽しみにしているのは他でもない紫陽花である。ひょんなことから平日に有給を取ることになったのも相まって、「今が見頃」という情報を嗅ぎつけた自分は気がついたら三室戸寺を足を運んでしまっていた。ちなみに今年で3年目である。

いざ三室戸寺

「そうだ京都、行こう」という金輪際現れることの無さそうな天才的過ぎるキャッチコピーが現実的に通用するのは、実は大阪とか奈良とかの隣県の住民までなんじゃないかという議論が自分の中で熱い。大阪の民からすると宇治もそこまで容易にアクセスが可能なわけではないのだが、それでもやはり赴くだけの価値が詰まっている都市であるという思いは訪れる度に強まる。いつも通りキムワイプのような見た目の京阪に揺られつつ「大衆が桜、紅葉だけに意識を向けている中、紫陽花を愛でるようになったなんて自分も京都通になったものだ」と盛大な井の中の蛙をしているうちに、素朴な三室戸駅に降り立つことになる。ちなみに例年と違い今回が平日だったため、見頃がピークかつ人が少ないという神展開を予想していたのだが、さすが三室戸寺、参拝者がいつでもそこそこいる。というか、超いる。

京都では季節ごとに訪れるべき名所が決まっており、「桜ならばここ」「紅葉ならばここ」と役割分担が決まっているものと思い込んでいたが、その概念をぶち壊さんとする勢力のひとつが三室戸寺だろう。この寺を検索すると紫陽花の名所として出てくるのは言うまでも無いが、一昨年前初めて訪れた帰りには意外とモミジが点在していることに気付く。その翌年は知人と訪れたためタクシーを使うことになったのだが、その道中運転手の方が「昨年は桜を~株(数値忘れたが信じられない本数)植えたそうですよ~!」という耳よりな情報を発していた。紫陽花の名所という肩書に満足することなく、冬以外のオールシーズンに対応しようとしている超ハイブリット京都欲張りセット、それが三室戸寺である。何刀流か分かるよしもないこの寺には、かの大谷翔平も一目置いているに違いない。

境内~本殿

三室戸寺の入り口を抜けると、両サイドには源氏物語が一帖ずつ描かれた簡易的な灯籠が視界に入る。「源氏物語の世界に浸ろうとして勢いよく買った角田光代さんの本、そういえば『少女』くらいまでしか読めてないな...」と三室戸寺を訪れる度に積読を恥じるのも今年で3年目である。今年は紫陽花のピークと聞きつけて訪れたのだが、少し残念だと思ったのは昇鯉が見られなかったことだろうか。目の前に立ちはだかる体感傾斜45度の階段を昇って姿を見せるのは蓮を手前に構える本殿である。元々山の付近に建てられただけあって静謐な場所であり、かつ蓮の光景が広がっているため「ここは極楽浄土なのだろうか」と勘違いしてしまいそうな程の不思議な空間がそこには広がっている。恐らく一般的には本殿の守護獣としては狛犬を採用する寺院が多く、大衆の認識もそうであろう。しかし三室戸寺はそういう概念の破壊にも余念が無い。三室戸寺の本殿を守っているのはなんと狛犬ではなく、狛牛と狛兎と狛蛇である。嘘だと思うのならば実際に見に行って頂きたい。ガラケーから切り替えて初めてiPhoneを手にした時のような衝撃を受けること請け合いである。


ところで本殿の手前に広がる蓮は紫陽花のピークとは若干時期がズレるため、いつも愛でるには不完全燃焼で終わることが多い。しかし、そんなつぼみの状態の蓮でも雨季には少々魅力があるものなのだ。自分は世界で初めて「エモい」という概念を生み出した張本人(犯人)は清少納言であると思っている。枕草子の中の「うつくしきもの」がその代表例だろう。そんなかつての平安時代のインスタグラマーに多少なりとも過去に影響されたこともあり、自分の中の「趣センサ」が若干変則的になっていることは否めない。蓮の花も強烈な色あいで十分魅力的なのだが、雨が降った後の蓮の巨大な葉の中に、弾かれた雨の水滴がちょんと小さくかしこまっている___自分はその光景を見つける度にエモーショナルな感情に包まれてしまうのである。

紫陽花園に身を投げて

参拝を終えてひとたび紫陽花園に身を投げると、そこはもう無限紫陽花地獄である。右を向こうが上を向こうが、クラウチングスタートをしようが紫陽花が視界に入る楽園なのだ。1m歩く毎に白、赤、紫といった、紫陽花の色の変化を楽しむことができるだろう。「映え」を気にするなという方が難しそうだ。自分は「紫陽花を楽しむならば雨」という固定観念があったが、なかなかどうして晴れの時も良い。約50種、総数10,000株の紫陽花に囲まれながら極楽浄土第二弾を味わうことが出来るのは、京都でここだけかも知れない。



しかし、こういう時に本当に自らの理系脳を呪う。園内に咲き乱れる紫陽花は、厳密にはひとつとして全く同じような色あいがなく、鮮やかなグラデーションとなっている。それ自体は見事で美しいと思う反面、「紫陽花の色が変化するのは、何が原因なのだろう?」という趣も何もないケミカルな疑問が浮上してきてしまうのだ。美しいという感動は単に「美しい」で終わればいいというのに。綺麗な花火を目の当たりにして炎色反応の話をし始めたり、紅葉の季節にはクロロフィルの変性がどうとか考えてしまう、面倒な理系の性である。これは後で調べたことだが、紫陽花の色が変わるのは土壌の酸性度が原因とのことらしい。そして、日本の土は酸性になりやすいため、紫陽花は青くなりがちだというのだ。確かに振り返ってみると、三室戸寺では青系統の紫陽花が多めであった。つまり、紫陽花の色あいを制御したいならば、土壌の酸性度を制御すればよろしい。ここまで境内に手の込んだエンタメ性を詰め込んでいる三室戸寺ならば、次はそういう土壌の制御までやってしまいそうである。そんな紫陽花の色合いの変化に纏わるウンチクを手に入れたところで、満足して三室戸寺を後にすることになる。
さて、一体何をしに行ったのであろうか...?

終わりに

三室戸寺は行く度に新しい発見があり、その魅力は紫陽花に留まらない。もはや年間行事のひとつとして組み込まれた紫陽花巡りであるが、これからも三室戸寺を拠点にするのはそうそう変わらないかも知れない。そしてまた、「次は蓮の季節に来ようと思ってたのに...」と訪れるたび思い出して後悔するのだと思う。


それでは。