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【蔵書No. 34】「からくれなゐ」を英語で? | 英語で読む百人一首

 昔は学生時代に百人一首を覚えるのが常であったようだが、それを今でも実践している学校はめっきり減ったのだろう。自分自身振り返ってみても、百人一首のうち何首か知ってはいるという状態だったが、がっつり覚える機会は殆どなかった。そんな自分が百人一首に本格的に興味を持ち始めたのは大学生になってからである。そうなったのは漫画の「ちはやふる」が要因として大きい。ちはやふるのテーマは競技かるただが、ストーリーの中で出てくる歌の紐解きを読んで、次第に自分も百人一首の持つ日本語としての魅力に惹かれていった。そのため、本書はインパクトが強かった。様々な技法をこらして表現されている歌は、他の言語でどう言い表されているのか、単純にそんな好奇心が湧いたからだ。日本語の歌を日本語のまま解体してもいいのだが、あえて別の言語からアプローチすることで、より百人一首の魅力に気づくことができるかもしれない。

読んだ本

・タイトル:英語で読む百人一首
・著者(英訳):ピーター・J・マクミラン

感想云々

 百人一首を英訳する際に興味深いのと同時にしんどそうだなぁと思うことが二つある。それは掛詞の存在と、日本語としての表現の曖昧さである。
 一つ目の「掛詞」とはご存知のとおり同音異義を利用して1語に2つ以上の意味を持たせる技法のことである。そんなテクニカルなことが十二分に発揮されている百人一首であるが、その掛詞をピタリと言い換えることができる英単語は存在しているのだろうか、という単純な疑問があった。例えば菅原道真の「このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉のにしき 神のまにまに」という歌。これは「紅葉が錦のようにヤバ綺麗だから、旅の安全を祈って神に供える幣として捧げようぜ」という意味合いである。ひらがなであることから察するかも知れないが、冒頭では「この度」と「この旅」がかかっている。この該当箇所を本書で照らし合わせてみると、「このたびは」は「On this journey」となっている。つまり「この旅」の方に訳が寄せられているのだ。「掛詞」という単語は学校の授業でしか聞いたことがない。そのため、掛詞という言葉を聞くとどうしても授業臭、いや受験臭が拭えなかったのだ。ところが一度日本語から離れて他の言語で掛詞の表現の翻訳を試みると、なかなか完璧な表現が見つからない。他言語で触れることによって、日本語の掛詞ないしその他の技法が、いかに唯一無二であるかを思い知らされるのである。
 二つ目の日本語としての表現の曖昧さは、もっと言うと色彩を表す日本語の表現である。本書の巻末にも少し書いてあるが、日本の古典詩において、決定的な役割を果たしている比喩が二つある。それは「紅葉」と「桜」だ。紅葉は専ら美しさそのものを愛でる時に使われるのだが、桜はただ「美しい」にとどまらない。美しいだけでなく、人生のはかなさと結びつけられることが多いのだ。このツートップの比喩表現があるせいか、百人一首の中には紅葉を詠んだ歌がけっこう出てくる。かの有名な「ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川 唐紅に 水くくるとは」という歌もそうだ。これは「古の荒ぶる神々でも、龍田川の紅葉がこんなに綺麗なの知らないんじゃね?」という意味合いである。この在原業平の歌を初めて知ったのは実は落語である。落語にも「千早振る」という演目が存在している。これは知識がないと思われたくない意地っ張りな隠居が「ちはやぶる~」の歌の意味を聞かれて、いい加減な解釈を加えるという話である。このちはやぶるの歌を聞いた時、正直「唐紅(からくれなゐ)」という色がはっきりとイメージできいなかった。単なる赤でもないし朱色のような淡目の色でもない。ましてやマゼンタのようなショッキングな色でもない。紅葉を例えているのだから赤に近しい色というのは分かるのだが、自分の脳内でそれ以上の情報が出てこなかったのである。この唐紅色をWebで調べてみると、RGBにしてR:215,G:19,B:69という定義が出てくる。またその色の近さから、唐紅色は深紅色と同義と言われることが多い(もちろんRGBは若干異なる)。つまり唐紅色をそのまま英訳するならば、真紅色を表す「crimson」が適切であることになる。ところが本書では「autumnal colors」と表現されているのだ。自分はこれには少し不思議な感覚を覚えた。「crimson」というそこそこ合いそうな英訳の単語があるのに、「autumnal colors」という少し抽象的な表現が使われていたからである。しかしよく考えてみると、ひとことで「紅葉」と言ってもその色合いは千差万別である。そんな多彩な紅葉に対して「crimson」という一意に特定できる表現を当てはめてしまうと、紅葉に対する「無数の彩り」のイメージが損なわれることになってしまう。本家(日本語)では「唐紅」という一色の表現が使われているが、あえて「autumnal colors」という若干ぼかした表現を使うことで、読み手に紅葉の多彩さをイメージさせたかったのかも知れないと思うようになった。

終わりに

 京都の桂川の近くに嵯峨嵐山文華館という施設があるが、そこには百人一首にまつわる常設展がある。そこには本書と同じように本家の歌とその英訳が展示されている。というか、英訳の内容も改行のタイミングも同じなので、「企画者が一緒なのでは?」と疑っている。本書や百人一首の展示を通して、他言語からのアプローチでしか気付けない日本語の魅力に触れてみてはいかがだろうか。


それでは。