Tanti Anni Prima

雑食なエンジニアの本棚

【蔵書No. 37】落語の魅力 | おあとがよろしいようで

 自分が最初に落語に興味を持ったのは、Podcastが世に出回り始めたころだったと思う。当時はPodcastを利用したWeb版の寄席を配信するチャンネルがあり、当時メディアといえばテレビや新聞しか知らなかった自分にとっては、そういったWebのコンテンツは非常に画期的だった。Podcastで目黒のさんまや金明竹をダウンロードしては、手持ちのiPodで同じ噺を何周もして、同じところで笑っていた。そんな当時の落語への情熱はあまり冷めることもなく、現在に至る。だが、長い間落語を聞いてきて、その魅力についてあまり考えたことはなかった。話の面白さや、落語独得の間のとり方など、要因は様々なのだろう。だが本書を読んで、自分がどうして落語の魅力に取りつかれていたのか、その理由が少しだけ分かった気がする。

読んだ本

・タイトル:おあとがよろしいようで
・著者:喜多川泰

感想云々

 作中で強烈に印象に残っているフレーズがある。主人公が所属する落語研究会の先輩である健太が、とあるセミナーで噺家の人に「なぜ噺家になったのか?」と問うた時のことだ。何気ない彼の質問に対し、噺家の回答は以下のようなものだった。

「落語の登場人物はみんなどこか抜けてる。いや、どこかどころかかなり抜けてる。欠点だらけなんですね。だけど、一つだけいいところが誰にでもある。その一つだけのいいところで江戸の社会にちゃんと居場所をつくって、お互いにそれでよしとしているんですね。何の文句もない。この部分を直せとか、もっとこうしろ、なんて相手に要求しない。お互い人間だから、馬鹿なところとか、自分勝手なところとか、あるよねってのが根底にある。そういう世界に憧れたんです。」

引用:「おあとがよろしいようで」 | 喜多川泰

この台詞を目の当たりにした時、自分がなぜ好んで落語を聞いているのか、その理由を代弁してくれているようで非常に嬉しくなった。確かに落語を聞いていると、お互いに相手の悪いところを詰りながらも「しょうがないなお前は」の一言で軽く済ませることが往々にしてある。そういう欠点が理由で本気の喧嘩をしたり、相手を傷つけたりすることがないのだ。ところが、現実はそうはいかない。日常で他人と時間を共有していると、徐々にその人の欠点にどうしても目がいくようになる。「この人はこれがなければもっと良いのに」「こんな一面を持っているなら少し距離を置きたいな」といった考えに至ることが少なくない。そしてその思考は、同じ人と時間を共有すればするほど強いものとなるのだ。ただしその欠点への目敏さが、他人に対してこっそりと思うレベルであれば問題はない。もっと厄介なのは、それを自分自身にもしてしまうことだ。一度その目敏さを手に入れた人間が自分自身の欠点を気にし出すと、他にどんな長所があってもその欠点に引っ張られてしまうのだ。その悪癖が積み重なると、いつしか自信を失ってしまったり、「生きていても楽しくない」というマインドに陥ったりと、負の連鎖につながってしまう可能性がある。そのため、自分は今や現実とは正反対ともとれる落語の世界に対して、知らず知らず良さを見出していたのかも知れない。相手のことを糾弾しないのはもちろん、登場人物は自分自身の魅力も分かっていて、少し抜けていても自分自身を許している節がある。そんな落語の世界の楽観性というか、懐の深さに魅力を感じていたのだと思う。

終わりに

 自分がもし学生生活をもう一度やるなら、今度は落研に入ってみたい。そんな気持ちにさせてくれる温かい小説だった。今ではだいぶニッチなエンタメとなった落語であるが、自分は引続き身の回りの人間を落語の沼に突き落とすことしか念頭にない。


それでは。