Tanti Anni Prima

雑食なエンジニアの本棚

【アルバムNo. 1】職人ラヴェルと超人ベルリオーズ

ベルリオーズ: 幻想交響曲/ラヴェル: 亡き王女のためのパヴァーヌ


 自分が「このアルバムを買いたい」と思うきっかけは、ひとえに好きなアーティストが演奏していたり、好きな楽曲が収録されているからである。だが振り返ってみると、その演奏が収録された当時の背景や曲そのものに関する情報を深堀りすることはあまりなかった。音大生が行っているような上等な楽曲分析(所謂アナリーゼ)ができればよいのだが、残念ながら自分にはそれを独自でやり遂げられる程の知識がない。しかし過去に買ったアルバムを単なる楽曲の集合として置いておくのも少々もったいない気がするので、改めて当時聞いた時の感想と共に備忘録として残していこうと思う。

アルバム情報

【タイトル】
ベルリオーズ:幻想交響曲/ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ

【収録楽曲】
■ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ
■ベルリオーズ:幻想交響曲 作品14
 Ⅰ. 夢、情熱
 Ⅱ. 舞踏会
 Ⅲ. 野の風景
 Ⅳ. 断頭台への行進
 Ⅴ. 魔女の夜会の夢

感想云々

■ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ
 ラヴェルの作曲スタイルはひとことで言うと「計算尽く」である。作曲家には様々なスタイルがいると思うのだが、個人的には大きく2つに分かれているんじゃないかと思っている。それは理詰めで一から構築して作曲するタイプと、理論ほぼ無視の感性全振りで作曲するタイプである。その2択でいくと、ラヴェルはゴリゴリのバキバキの理論派。「ここで聴衆を盛り上げて...」「ここで感情を揺さぶって...」みたいな制御はラヴェルにかかればお手の物である。その計算の緻密さ・精巧さのえげつなさに、同音楽家ストラヴィンスキーに「スイスの時計職人」と言わしめたほどである(「あれ、フランス人なのになんでスイス?」と思うだろうが、生い立ちに色々あるので割愛する)。
 もうひとつ特筆すべきは、ラヴェルが超絶オシャレということ。ラヴェルはフランスの作曲家だが、彼は自身のキャリアの中でアメリカに渡って演奏活動をした経歴がある。エピソードとして、その時に持っていった服の量がえげつない。パジャマ20着、チョッキ・Yシャツ各12着、そしてネクタイに至っては57本というもの(グロタンディークも真っ青である)。「服バカ」という言葉が似合うほどのファッションモンスターであったことが分かるのだが、そのオシャレマインドは彼自身の曲においても遺憾なく発揮されているように感じるのだ。おフランス人恐るべし...。
 そんなラヴェルが作曲した亡き王女は、1899年に作曲されたピアノ曲である。元はピアノ曲であるが、その約10年後には管弦楽曲にもなっている(「管弦楽で初めてこの曲を知った」という人も多いのではないだろうか)。終始おだやかで柔らかいメロディが展開されているのが特徴だが、ラヴェルがルーブル美術館で見たベラスケス作「マルガリータ王女」の絵からインスピレーションを受けて作曲したと言われている(諸説あるが)。実はこの亡き王女、ラヴェル自身の自己評価も当時は高くなかった。「大胆さに欠ける」「かなり貧弱な形式」という感想を抱いていたのだ。その後彼は晩年まで言語障害と記憶障害に悩まされることになる。記憶障害のせいで自身の作曲したものも忘れてしまったある日、再度この亡き王女を自身で聞くことになる。その時彼は思わず「美しい曲だね。これは誰の曲なんだい?」と言ったそうだ。曲を聞かずとも、なんかもうこのエピソードを聞いただけで涙が止まらないし、素晴らしすぎてなんならこのエピソードだけでご飯3杯はいける。
 そんな亡き王女だが、自分はこのサイトウ・キネン・オーケストラによる演奏はただ曲として楽しむにとどまらない。どころか、自分はもはやペースメーカーとして利用している。どんなに怒りや焦り、悲しみの感情に苛まれていても、曲の静かさと当時の演奏のゆっくりとしたテンポがいつでもニュートラルな状態に戻してくれるのだ。亡き王女で最も聴き応えのあるのはやはり冒頭のホルンの音色だ。亡き王女のホルンといえば、のだめカンタービレの中で千秋がホルンに対し「もっと小さく!」と連発していたのが思い出される。その描写があるほどデリケートさを極める曲なのだと思うが、本演奏ではそれがきっちりと体現されている。それはそれは細く柔らかい音で始まっている。録音でなく当時もし会場にいたならば、呼吸するのだって憚られそうな静謐な雰囲気であったに違いない。小さな音なのに、決して消えることはなさそうな強かなホルンの音。徐々にホルンの音に楽器が加わって展開される本曲であるが、ホルンのソロが終わるころにもう一度冒頭に巻き戻して、最初の部分を延々とヘビロテしてしまうのである。


■ベルリオーズ:幻想交響曲 作品14

 ベルリオーズはラヴェルと同じフランス人だが、ラヴェルに負けず劣らずのクセつよ作曲家であることを認識しておかねばなるまい(褒め言葉)。まず注目すべきはベルリオーズの才能だ。彼は幼少期(~15歳頃)に父親からの助けもあり、ギターやフルートを習っていた経緯がある。ところが作曲に関しては完全に独学。書籍を読んで作曲のいろはを学んでいた彼だが、独学故に難解な壁に何度もぶちあたる経験をした。しかし様々な著者の和声論を片っ端から調べ上げていくことで、徐々に自力で作曲・編曲ができるようになっていった。ここで驚きなのは、ベルリオーズはピアノが弾けないということ。ベルリオーズはそもそも家にピアノがなかったし、楽器の演奏も特別上手というわけではなかった。ただし、彼はそのビハインドを超越できるほどの耳の良さを持っていた。ピアノや別の楽器で音を鳴らさずとも、音をイメージできてしまったのである。
 そんな超人スキルを持つベルリオーズだが、実は彼のキャリアが全て音楽に特化されていたわけではない。実は彼が18歳の時に大学編入試験に合格して医科大学へ進学することになるのだ(ちなみにベルリオーズの父親は開業医)。ところが在学中に解剖学の途中で気が怯んでしまう。「あ、やっぱ俺医者に向いてねーわ」と悟って音楽に転向することになるのだ。その後、医大に通う予定だった時間を全てコンセルヴァトワールの図書館に通うことに全振りして、さらに作曲のスキルを磨いていくことになる。医大生でありながらの音楽活動というのは、常人には信じられない二刀流だ...。
 そんなベルリオーズの最高傑作とも名高いこの幻想交響曲。ファンタスティックなタイトルだが、実はベルリオーズ自身の失恋を元に作られた音楽なのだ(←)。このきっかけもまぁまぁ衝撃的だが、幻想交響曲の特徴は曲中に明確なストーリーがあるということ。主人公である若い音楽家が恋の悩みによる絶望から、アヘンによる服毒自殺を図る。しかし毒の量は彼を死に至らしめるまでにはならなかった。その代わり主人公は毒による副作用で、眠りの中で奇々怪々な夢を見る。その夢の内容が、全5楽章に渡って展開されているのだ。因みにこの曲を作ったベルリオーズ自身も、当時アヘンを服用しながら書いたという逸話がある。当時オーケストラ音楽をかじり始めた自分にとって、交響曲にストーリー性があるのは中々衝撃だった。「この部分は華麗な舞踏会のシーンだな」「この部分はまっさらで何も無い野原だな」といったように、各楽章のストーリーについて事前にインプットがあるだけで、その曲から想像できるイメージのリアルさがレベチなのである(まぁ、各楽章のタイトルでも分かるのだが...)。
 この幻想交響曲の聴き応えのある部分は、第4楽章「断頭台への行進」である。「なんで急に断頭台(ギロチン)が出てくんねん」と思うだろう。実は作中で主人公は、夢の中で愛していた彼女を殺してしまうのだ。その後主人公は死刑を宣告されてしまい、断頭台へと引っ張られることになる。その行列は行進曲に合わせて前進していく。それに合わせて、行進曲も徐々に華やかさを増していく。そしていざ断頭台にたどり着いた時に、主人公はふと彼女に思いを巡らせようとする。その瞬間、ギロチンが落ちて全て終わるというストーリーである。この解説もあらかじめ読んでいたし、「断頭台への行進」というタイトルがつけられているから、当時「どれほど暗い音楽が展開されるのだろう」と身構えている自分がいた。しかし実際に聞いてみると、自分が抱いていたイメージとは裏腹に、信じられないくらい華やかなマーチなのだ。聞いている途中、これから主人公が死にゆくことを忘れてしまうくらいに。その荒々しくも勇ましいマーチの4DXさながらの迫力に当時は圧倒されてしまった。また、第4楽章の中で繰り広げられる音の表現にも注目せねばなるまい。第4楽章の最後に下記のようなフレーズが出てくる。強く大きい音が「ジャン!!」となった後に、「ポン、ポン」とピッツィカート(弦を指で弾く奏法)が2回。

これ、何の音かお分かりだろうか。
先程のストーリーのインプットがある状態ならお気づきかも知れないが、最初の強い音はギロチンがズドンと落ちる音、その後のピッツィカートは、刎ねられた首がボテボテと転がり落ちる音だ。

「意味がわかると怖い話」をベルリオーズがクラシック音楽において見事体現した貴重な楽曲だろう。
 ちなみに第4楽章で処刑された後、次の最終楽章では主人公は地獄に落ちる。それはもうきっちりと落ちる。地獄では彼を歓迎するかのように、ありとあらゆる魔物が取り囲んで彼の葬儀を行う。楽しそうなメロディっぽいのに不穏な気配が拭えない、気持ち悪さをはらんだ音楽である。そこでは主人公は、かつての恋人と再開することになる。「あ、なんだかんだ再開するんや。よかったやん、ハッピーエンド?」と思った人、甘い。かつての可憐な恋人は、見るに耐えない醜い魔女に成り果ててしまっていたのだ。最後の壮大な終わり方とは裏腹に、振り返ってみれば誰も報われていないことに気づく。この曲が終わる頃には、音楽の壮大なエネルギーによる充実感と、素晴らしい絶望感が心を満たしてくれること請け合いである。
 5楽章に渡る壮大なストーリー展開と演奏の素晴らしさに心を奪われがちになるが、最初に立ち返ってみると、この曲がつくられたそもそものきっかけはベルリオーズの失恋である。負の感情の吐き出し方というのは人によって様々だろう。しかし超人ベルリオーズにそれをやらせると、こんなにも壮大な音楽が出来上がるのだ。それほどに、失恋によって生じる負のエネルギーというのは大きい。そんなことを、この曲を聞いた感動とともに考えさせられるのである。

終わりに

 自分はコンサートのプログラミングがどのように行われているか、それを分解するほどの知識を残念ながら持ち合わせていない。ただ、同じフランス人なのにこんなに違う音楽性が垣間見える本構成は面白いと思うほかない。このプログラムをCDではなく、ぜひコンサートホールで体感してみたいものだ。


それでは。