Tanti Anni Prima

雑食なエンジニアの本棚

【蔵書No. 13】なぜクラシック音楽は流行らないのか | 終止符のない人生

2020年に実施される予定だったショパンコンクールはコロナの影響で翌年に開催されることになった。

開催が5年に一度という、五輪よりもレアなイベントであるショパンコンクール。今までファイナルを見ることはあっても、一次予選から見ていたのは今回が初めてであった。(何なら予備予選から見た)
それは、出場しているコンテスタントたちが近しい世代というのも大きい。
しかし、一番は反田さんのような怪物じみた実力者が出てきたことだろうと思う。
そんな反田さんがショパンコンクールを経て、本を出版するに至った。
これはクラシック音楽ファンならば読む必要がある一冊である。

読んだ本

・タイトル:終止符のない人生
・著者:反田恭平
・読みやすさ:7/10点

ざっくり内容

テレビやYouTubeなどのメディアで目にする反田さんは優雅にコンチェルトやソナタを演奏している姿が印象的である。
しかし、本書ではそんな反田さんのバタ足の部分が遠慮なく書かれている。

反田家は元々音楽一家というわけではない。
そして、最初からピアノを本業としていたわけでもない。
(何なら反田少年はサッカーに没頭していた)
序盤ではそんな反田少年がヤマハからはじまり、ソウル、ニューヨーク、そしてモスクワの音楽院に至るまでの経緯が書かれている。

やがて、中盤ではメインのショパンコンクールに至る。
ショパンコンクールを見ている限りだと、一般人では各予選のプログラム構成だけからコンテスタント達の意思を汲み取るのは難儀である。
そんな中、本書ではどのような戦略で予選のプログラムを組んだのか、審査員構成、コロナ禍等々、何を考慮してプログラミングしたかが書かれている。
反田さんがどんな心境でコンクールを戦い、勝ち抜いたのか。当時の反田さんの思い、緊張感を文章で味わうことができるだろう。

終盤では、反田さんは今日のクラシック業界に不満を爆発させている。
日本で愛好家が減りつつある現状。
クラシック文化の浸透の悪さ。
未だ消えない業界のアナログ感。
演奏者に限らず、クラシック愛好家ならば誰もが感じたことのあることを代弁してくれるようだった。本書を読むことで、反田さんの不満だけでなく、本人が思い描くクラシック業界への野望を汲み取ることができる。

感想云々

どうしてこんなにクラシック音楽は流行らないのだろうか、と常々思う。
理由は色々ありそうだが、本書を読んで個人的に以下の3つのようなことを考えている。

1つめは、まだまだ我々に芸術を軽視しすぎる節があることだ。
 文化予算という大きな括りになってしまうが、日本が芸術にかける予算はフランスの約10分の1である。「フランスは芸術の国だから...」というように思えるかも知れない。
しかしアジア圏で見ても、近年韓国が日本の何倍もの予算を芸術に弾くようになってきている。
 そういう分野に予算を弾くことに二の足を踏んでしまうのは、芸術がもたらす効果が未だ不透明であるからかも知れない。我々は何か新しい領域を開拓しようとした時、それが何の役に立つのかを最初に考えてしまう。クラシック音楽に限らず、芸術分野はそういう意味で一番最初に弾かれてしまうだろう。その思いも大いに分かる。しかし一方で、どうして役に立たないといけないのか、とも思ってしまう。個人で過去を思い返してみても、人生を大いに彩って豊かにしてくれたのは、寧ろそういう役に立たないものたちだったと思うのだ。国全体でそういうマインドになるには、恐らく膨大な時間がかかるだろう。

2つめは、刷り込みの足りなさである。
 現在クラシック音楽が好きな人は、恐らく家庭環境の影響で聞いてきた人がほとんどだろう。楽器をやっている人は、自分の演奏はもちろん、発表会等で他人の演奏を聞く機会も多い。そうでなくても、親がクラシック好きならば、CD等で日常的に聞かされて半ば洗脳されているかも知れない。そのように、クラシック音楽好きになるための外的な要因は、今日では親からの教育に委ねられている節がある。親がクラシック好きならば、その子供が感性を引継ぐことはあるかも知れない。しかし、逆は結構難しい。その構図だと、クラシック音楽の愛好家が減ってしまうのは、割と自然であるように思えてしまう。
 また、クラシックのコンサートはなかなか閉鎖的である。クラシック音楽を聞こうとすると、外部から完全にシャットアウトされた静かな空間へとわざわざ足を運ばなければならず、どこからともなく聞こえてくる、という環境は日本にはまだまだない。一方海外では、アメリカのタングルウッドのような、半野外ステージがクラシック音楽においても存在する。そこではもちろん、会場に入ってコンサートを聞いてもいい。会場に入って聞けないお客さんは、ワインを持ちこんで野外に座りこみ、ホールから漏れ出して聞こえてくる音楽を楽しみながら飲む。敷地があるからこそできるコンサートの形態だが、場所を選べば日本であってもそのような舞台は作ることができそうだ。真剣には聞いたことはないが、漏れ出す音楽を街中なり旅行先なりでふと耳にすることで、いつの間にか知っている。環境を作り変えることで、いつの間にかクラシック音楽の感性を持たせることは、可能だと思うのだ。

そして3つめ。これはいささか暴論だが、エンジニアが原因だと思っている。
 クラシックに興味のない人の意見は「そもそも一曲が長い」「じっとしていられない」「意識が高いという先入観がある」というものである。(先に突っ込んでおくが、自分に言わせればフェスで富士山まで行き、その山麓をアーティストのために走り回る邦楽好きの方が確実に意識が高い...)
一方で、クラシック愛好家の意見は「マナーを守らない品のないやつが増えて、格式高い演奏、ホールが台無しになってしまう」というものだ。
 個人的には、両者の意見はどちらも納得できる。そういうゼロ百の代表格になってしまっているクラシック音楽では、0→1を生み出すのがなかなか難しい。テクノロジーは、彼らの橋渡し役を担っていると思うのだ。
 じっと聞いているだけのイメージのクラシック音楽だが、何も聴覚だけに頼る必要はない。既存の技術であるプロジェクションマッピングや、音を振動として皮膚に届ける技術を駆使してもいいだろう。最近話題になっていることだが、今日では他人の手の動きを高い精度でトレースする技術もある。一流のピアニストの手の動きをトレースして、ピアノを弾いたことのない人が難曲を演奏できるようになってしまうのだ。今や音楽は単に聞くのではなく、体験するフェーズに移行しつつある。
 テクノロジーを加速させること。それが結果的に、クラシック好きを増やす要因になり得ると思うのだ。

終わりに

近年反田さんのような実力者が現れつつある中、環境が整っていないことで思ったよりもクラシック音楽が浸透しないのは非常にもったいないことである。

時間はかかるかも知れないが、どんなメディアでもいい、アーティストたちが声をあげ続けることを辞めないで欲しい。

それを受けて、テクノロジーと合わさった音楽の形態がこれからどのように変化していくのか、これから非常に楽しみである。


それでは。