Tanti Anni Prima

雑食なエンジニアの本棚

ガルシア&ハンブルク交響楽団コンサート

 ここ数年でコロナが緩和して数々のクラシックのコンクールが息を吹き返してきたが、自分の中では2021年のショパンコンクールを超えるアツい闘いは未だない。それは自分がショパンが好きという理由のみならず、やはり当時スター性を有するコンテスタント達が揃っていたことが大きいのだろう。ショパンコンクールのあの舞台に立つ猛者達はみな心なしか後光が差していると錯覚するくらい、オーラを身に纏った雲の上の存在である。しかし映像だけ見て完結してしまうのは少々勿体無い気がして、応援も兼ねてコンテスタントの演奏を生で聞こうと決意したのは昨年のことだ。昨年一発目は反田恭平氏と同率2位に並んだアレクサンダー・ガジェヴ氏、そして今回は同大会で3位かつコンチェルト賞を受賞したマルティン・ガルシア・ガルシア氏である。加えて、今回ガルシア氏をバックアップするのは超A級の実力を有するドイツの名門ハンブルグ交響楽団。そんな素敵なプログラム、行くしかないではないか。

曲目はこちら
■ベートーヴェン:序曲「エグモント」op.84
■ショパン:ピアノ協奏曲 第2番 ヘ短調 op.21
 (ガルシア氏ソロアンコール)
  ・リスト:巡礼の年 第3年「エステ荘の噴水」
  ・ショパン:子猫のワルツ op.34-3
■ベートーヴェン:交響曲 第7番 イ長調 op.92
 (オーケストラアンコール)
  ドヴォルザーク:スラヴ舞曲 op72-2

序曲「エグモント」op.84

 個人的にバランスの良いコンサートというのはプログラムが3曲構成ならば2曲は既知で、残り1曲は新曲開拓の意味も含めて知らない曲、というものである。いつしかこんな謎ルールが自分の中でできていたのだが、今回はこのエグモントがその知らない曲のはずだった。しかし開始3秒で余裕で知っている曲であることに気づく。(そういえば2021-2022の年を跨ぐジルベスターコンサートでガッツリやられていた)。しかしこのエグモント、オケの実力も相まってなんと勇ましくカッコいい曲であることか。
 どこまでも素人なのでコンサートのプログラミング構成を解釈することなどできないのだが、エグモントを一発目に持ってくるのは少々納得が行く。エグモントはベートーヴェンの他の傑作に比べれば少々マイナーな曲なのかも知れない。しかしエグモントを知らない人、というか、クラシックをほとんど聞かない人が初めて聞いても「あ、なんかベートーヴェンっぽいな?」と思えるほど「THEベートーヴェン」感溢れるメロディなのだ。それだけではない。エグモントのブレない厳かな曲調は、コンサートが始まる前に少々浮ついていた我々の気を引き締めるのにはうってつけなのである。「お前ら、今から凄い演奏があるんだから、心して聞けよ」とあの有名な睨みつけるような肖像画のベートーヴェンが我々に言い聞かせているようだった。あの肖像画、あんなに険しい顔なのはその日の朝食が信じられないほど不味かったかららしいのだが。

ピアノ協奏曲 第2番 ヘ短調 op.21

 ショパンコンクールのファイナルは課題曲が2曲しかない。ピアノ協奏曲の1番と2番である。これはド偏見なのだが、ショパンコンクールのファイナルまで行ったら普通は第1番の方を弾きたくなるんじゃないだろうか。自分もどちらの協奏曲が好きかと言われたら第1番である。自分が舞台上で格好良く協奏曲第1番を演奏する妄想を数千回したくらいには好きである。しかし、ショパンコンクール本番で自分を感動させたのは、第2番を演奏したコンテスタント達であった。協奏曲の第2番は実は第1番よりも先に作られているという少々ややこしい曲だが、個人的には第1番のインパクトと違って、ジャーキーの如く繰り返し聞くことで徐々に好きになってしまう曲である。実はノクターン20番(遺作)のフレーズが協奏曲の中に組み込まれているというのもまたいい。
 厳かな第1楽章とは打って変わって第2楽章では煌びやかかつエレガントなメロディが展開される。SPYxFAMILYのヘンダーソン先生でなくとも思わず「エレガント」と心の中で叫んでしまうほどである。手元にワインをくれワインを、と何回唱えたことだろうか。繊細な演奏なはずなのにどこか強かさがあり、かつ彼特有の物腰の柔らかさも加わった唯一無二の第2楽章。やはりコンクールでのコンチェルト賞は彼だなぁと確信するのである。ところで毎度のことであるが、第3楽章の導入はいつも鳥肌が収まらない。ポーランドにはマズルカという伝統的な民族舞踊があるのだが、第3楽章ではこれでもかというくらいマズルカの要素が凝縮されている。そのせいだろうか。第3楽章が始まると、現地に行ったことなど無いはずなのに、ワルシャワ特有のどこか哀愁を帯びた風景を想起せずにはいられないのである。よく久石譲氏の「Summer」とか、ドヴォルザークの新世界の「家路」とか、致死量を超えるレベルの郷愁を強いるえげつない曲がある。そういうのを聞くと郷愁要素が多すぎて(褒め言葉)もはや死にたくなるレベルの感情の突き動かされ方をするものであるが、この第3楽章は程よいのだ。むしろ、うまいこと散りばめられた哀愁感が我々のこころを心地よく刺激してくれる。コンクールでは死物狂いで一音一音に集中していたはずのガルシア氏が当時の熱量そのまま再現してくれているようで、その情熱を耳どころか肌で感じずにはいられなかった。やはり生で聞けて良かった。

交響曲 第7番 イ長調 op.92

 ベートーヴェンの「運命」とか「合唱」とか、副題がついているものが有名なのは分かるのだが、交響曲第7番が日本でここまで普及したのは、ひとえにのだめカンタービレのおかげかも知れない。今や他の副題つきの交響曲と方を並べる程のメジャーな曲になったと思うのだ。この交響曲第7番だが、自分の中では中々特別な曲である。交響曲は複数の楽章から成り立っているのだが、自分は素人故に興味を持って聞く楽章は結構ピンポイントである。例えばラフマニノフのピアノ協奏曲第2番では第1・3楽章が好き過ぎて、第2楽章に入った瞬間「あ~早く第3楽章に行かねーかなー」とか失礼極まりないことを考えてしまうものである。ところがベートヴェンの第7番ではそういうことを考えたことがない。1~4楽章すべてがキャッチーで、聞き手を飽きさせることがないのだ。もちろん、他の交響曲の各楽章にも、然るべき存在意義があるのは重々承知している。しかし全ての楽章を惜しみなく楽しめるこのような曲は、自分にとっては稀有な存在なのだ。また、第7番の魅力はそれだけではない。一曲目に演奏されたエグモントとのギャップが凄いのだ。この2曲、本当に同じ人が書いたのかと疑う程には曲の明るさが異なっている。2曲を同じ公演で聞いていると、まるで演歌の道40年の歌手が突然ラップを歌い出した時のような衝撃を覚えるのである。確かこの第7番が作曲された少し前にかの「エリーゼのために」で有名なテレーゼとの恋が実らずに終了して間もない頃だったと記憶しているのだが、そんな境遇でこの曲を書き上げたベートーヴェンには(大変痴がましいことだが)畏敬の念を抱かざるを得ない。
 前述のように第7番はどの楽章もすばらしいのだが、やはり自分にとって一番聞いていて楽しいのは第4楽章である。「フィナーレ」という言葉がよく似合うほど、第4楽章は熱狂的である。第7番はベートーヴェン本人が交響曲の中でも特にリズム感にこだわりを抱いている作品らしく、4楽章で4種類の舞踊をそれぞれ見ているかのような感覚に包まれる(なんならフィナーレでは指揮者ももはや踊っている)。そしてラストに差し掛かるにつれ、クラシックのコンサートに来ているはずなのに、まるでロックのフェスに来ているかのように聴衆が高揚していくのが分かる。日本に数年前にクラシック旋風が巻き起こったのはのだめカンタービレの功績。そして、そののだめの中で主軸となっていた曲はこの第7番である。漫画としての面白さももちろんあったと思うのだが、その陰で第7番の持つ魔力に皆あてられていたのかも知れないのだ。久々に生で聞いたが、こんなに満足感の高い曲だったとは。

終わりに

 クラシックのコンサートというと、振り返って見れば何故か今まで大御所ばかり聞いてきた節がある。でも同じくらいの世代の演奏を聞いて、「こんなに凄い演奏する人が同世代にいるのか」と嬉しい驚きをするのも新鮮で悪くない。彼はまだ20代。これから彼がどんな成長をしていくのか考えると、次に聞ける演奏会が楽しみで仕方ない。


それでは。