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【蔵書No. 32】歌の第三勢力「都々逸」 | 26文字のラブレター

 都々逸(どどいつ)が世の中ではまだまだマイノリティであるのがなんとももどかしい。俳句や短歌なら知ってはいるが都々逸は知らん、という人は多いだろう。そんな人にはぜひ本書を通して都々逸の魅力に触れて頂きたい。そもそも都々逸というのは江戸末期に大成された、口語による定型詩である。俳句は「五・七・五」、短歌は「五・七・五・七・七」であるのに対し、都々逸は「七・七・七・五」のリズムで詠む。「なんじゃいそのへんてこなリズムは」と突っ込みたくなる人もいるだろう。そう思う人は、下記の歌を一度口に出して唱えてみて欲しい。
・恋に焦がれて鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす
・散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする
・立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花
実際に口に出してみるとその独特なリズムに言いようのない心地よさを覚えるし、なんならこの都々逸をすでに知ってたわ、となること請け合いだろう。俳句や短歌のようなジャンルフリーというよりは、比較的男女の恋愛などを詠んでいる情歌としてのポジションを築いた都々逸の凄さを、本書を通して知ることができるだろう(絵がめちゃくちゃオシャレ!)。

詠んだ本

・タイトル:26文字のラブレター
・編:遊泳舎
・絵:いとうあつき

感想云々

 自分が初めて都々逸を知ったのは落語であった。当時関東に住んでいた自分は浅草が近いこともあり、何度か演芸場を訪れる機会があった。そこで聞いたのが、「妾馬(めかうま)」という演目。落語好きの中ではもはや定番となっている演目だろうが、妾馬のエピソードはざっくり以下のようなものである。
 ぐうたらな主人公八五郎の妹が、ある日自宅の前をたまたま通りがかった殿様に気に入られ、屋敷に奉公してほしいという申し出を受ける。いわゆる玉の輿ということで主人公も大いに喜び、妹の大出世を祝って送り出す。しばらく経って主人公の妹は奉公先でめでたくご懐妊。その後兄(主人公)の近況を心配していた妹の粋なはからいで、主人公自身も屋敷に呼ばれることになる。付け焼き刃のマナーを武装して屋敷に赴く主人公。緊張の面持ちで殿様とご対面になる。だが無礼講ということで酒をすすめられるまま飲んでいると、徐々に主人公もいつものがさつな状態に戻ってしまう。酒が入り、調子の乗り方もエスカレートしていく主人公。酔が覚める頃には、殿様の傍には美しく着飾った主人公の妹が。その立派になった姿を見て、初孫に会えない主人公の家族のことや妹自身の気苦労を慮る主人公は、涙ながらに「妹をどうかよろしくおねがいします」と殿様に頭を下げる。そんな湿っぽい雰囲気に包まれる中、主人公が場の空気を盛り上げようとして突然都々逸を披露する。「面白いやつだ」と殿様に気に入られ、最終的には主人公自身も屋敷に奉公する大出世を果たす...というもの。
 今や都々逸が登場する落語は沢山あるという事を認識している。だが、当時落語の世界に触れ始めたばかりであった自分にとっては、演目の中で聞いた都々逸に不思議な感覚を覚えた。派手ではないが地味でもない。また、庶民的であるため決して上品とは言い切れないものの、下品でもないどこか色っぽさがある。そして、噺の中にしれっと登場しても本編を邪魔しない飾らない感じ。それまで都々逸のことをよく知らなかった自分は、噺の中にこんなに自然と織り交ぜることもできるのだと、そのバランスの良さに感心してしまった覚えがある。以降自分の人生は落語の世界にどっぷりと浸かることになるのだが、都々逸の魅力が間違いなくその一助となった。
 都々逸の最たる魅力は、「詠み人知らず」が多いということだと思っている。詠み人知らずとは、文字通り「誰が詠んだのかわからない」ということだ。もちろん全てではないだろうが、現代にも残っているような短歌や俳句だと、その歌を詠んだ人が明確なことが多い。そうなると初見で内容を完全に読み解くことができなくても、自分のようなビギナーだと作者にひっぱられることが多いと思うのだ。「内容はよくわからないけど、松尾芭蕉が詠んだ歌ならばきっと素晴らしいのだろう」といった思考停止に陥る可能性があるのだ(いや、恐らく本当に素晴らしいのだが...)。一方で都々逸は詠み人知らずであることで、そういったネームバリューのようなものがない。そうなると、言葉の魅力がより浮き彫りになって感じられるようになると思うのだ。例えば、都々逸の中にはこんな歌がある。

「思い出せとは忘るるからよ思い出さずに忘れまい」

「26文字のラブレター」より | 遊泳舎

この歌の読み解きは以下のようなものである。
「思い出す」というのは温かいワードに感じるが、裏を返すと「一度は忘れてしまっていた」という証である。「過去の恋愛を何回も思い出す」と悩みを抱える人も、一度は忘れて思い出にできていたということ。その時点ですでに前を向いて歩いているのだから、心配なんていらない...というもの。
普段生活していると、「思い出す」なんて日本語、特別なものでもなんでもないだろう。しかしこうやって歌の内容を解いていくことで、実はネガティブな言葉ではなく前を向けるようなポジティブな言葉だと気づくことができるのだ。自分はこの歌に触れるまで何気なく使ってきたワードをそこまで深堀りした経験がなく、目からウロコが落ちるようであった。そんな歌の中身をダイレクトに楽しむことができる都々逸は、まさに「声に出して読みたい日本語」だと思うのだ。
 ちなみに前述した「恋に焦がれて~」の歌も非常に魅力的だ。(今でもそうだが)蝉は求愛のために鳴き続けている。だが、誰もが蝉のように自身の想いを表現できるわけではない。蛍だって、蝉と同じように短命である。無口だが、その心のうちにはどれほど強い想いが秘められているのだろうか。ひたすら光を放って飛び続けている姿は儚く切実で、思わず胸が苦しくなってしまう...という内容である。SNS上では明確な定義なしに「エモい」という言葉が乱用されているように思えるが、この歌に関しては正直エモいという表現はぴったりなのかもしれない(←)。この歌の意味を知ったときは俵万智氏のサラダ記念日を初めて読んだ時のような、尊さが致死量を超える感覚に包まれた。もの凄く共感できる内容なのだけれど、誰が詠んだのかがわからない。そのミステリアスな感じが歌としての魅力を倍増させているのかも知れない。

終わりに

俳句や短歌に触れていると、逆に「実際に自分も詠んでみたい」という思いに駆られる人もいるだろう。そんな中で、韻も踏める・掛詞も使える・でも季語はいらない自由度の高い都々逸は歌の入口として意外と丁度いいのかも知れない。言葉遊びと洒落っ気に満ちた都々逸の体験をぜひ一度。


それでは。