この作品をドラマで見たのは2011年頃だったと思う。当時はあまり読書もしていなかったため、今も昔も有名人なはずの林真理子氏の存在も知らなかった。当時ドラマ自体は割とありふれている設定に思えたのだが、妙なリアルさがあり、謎の惹き付ける力があったことだけは覚えている。今や自分は窪田正孝のファンであるが、作中でのプー太郎の演技が上手すぎて、実は本人もプー太郎なんじゃないかと錯覚したほどである。あれから10年余りが経過した。自分がさらに大人になった今、この作品を改めて読み直したら当時持っていた感想とどんなギャップがあるかな、と思い手に取った。やっぱり、いつ読み返してみても面白い作品である。
読んだ本
・タイトル:下流の宴
・著者:林真理子
感想云々
原作を改めて読んで直感的に抱いたイメージは(誤解を恐れずに言うならば)、「ダーク版『あたしンち』?」というものである。内容がつまらないということでは全くない。むしろどちらも面白くて大好きな作品である。あたしンちが人気な理由は、作中で描かれる日常生活が、読者にとって共感を覚えやすい「あるある」の内容だからである。大雑把で豪快な母、口数が少なくのんびりとした父、いつでも客観的で冷静な弟...といった典型的な人間像もそうだ。読み手の身の回りにも似たような存在がいるからこそ、作品の世界観にのめり込んでしまうのだろう。そしてこの下流の宴も、ストーリーこそ違えど、あたしンちと同じく描かれている家族像に共感を覚える人は少なくないのではないかと思う。あたしンちとの違いを挙げるならば、下流の宴は笑えるネタでなく、読み手にドキリと冷や汗をかかせる共感であるということだ。近隣からの評価を常に気にしてとにかく見栄で身の回りを固める母親。自分の家族のことなのにまるで赤の他人の家族であるかの如く家族問題に首を突っ込まない父。母親の血を受け継いだせいか学歴や恋人、スーパーで手にする食材まで気を使って周りへのアピールに余念がないプライドの高い姉。そしてすべてに興味を持てず、あらゆることを悟ったかのように仕事もせずプー太郎として生きている弟である。作品として客観的に読む分には面白いかも知れない。しかし、この家族は割と平成に潜んでいた裏の典型的な家族像にも思えてならない。フィクションのはずなのにどこか他人事でないものを感じさせる少しブラックなテイストが、この作品の魅力を引き立たせているように思えるのだ。
そして自分がこんなこと言える立場でもなさそうだが、人間が一生の中で一番お金を使うのは家でも車でもなく、「見栄」だとつくづく思う。自分がこれを強く感じ始めたのは、投資を始めるようになってからかも知れない(もちろん、本書を読んだのも一つの理由である)。近年でiDeCoやNISAといった新しい資産運用スタイルが台頭してきてから、世間では投資の話を聞くことが多くなった。最近では「投資をしないやつは情弱」なんて極論を聞くこともしばしばである。自分もそんな波に乗せられて(というか自分の浪費癖に危機感を覚えて)投資を始めた身である。投資をしている人の中では当たり前のことだが、投資は入金力が物を言う世界である。そして給料含め収入があまり伸びない我が国においては、(大富豪を除いて)一般人は支出を減らす姿勢にシフトするのが常套手段だ。投資をして曲がりなりにもマネーリテラシーが徐々に身についてくると、自分も「自分や周りの人は何に一番お金を使ってしまっているのか」と考えることが徐々に増えた。そうしてたどり着いた一つの結論が「見栄」だ。「オシャレなスイーツのお店に行きたい」「カッコいい車に乗ってドライブしたい」「都内の高級マンションの最上階に住みたい」...それらの願望は、果たして100%自分のためなのだろうか(中にはそういう人もいそうだが)。それらは、裏返せば周りへのアピールであったり、周りからの評判を気にした上での願望であるように思えるのである。
ただここまで言っておいてなんだが、自分はその「見栄」にお金を費やすことを、そこまで悪いとも思っていない。これまた投資の話であるが、最近では「FIRE」を目指す風潮が強くなってきている。これは、さっさと投資等でお金をためて仕事をやめ、残りの人生をぶらぶらと自由に過ごそうというものである。社会に縛られない生き方をしたいと思うのは良いことだが、このFIREを目指す人が急増しているのは、少し異常に感じるのだ。今では投資で然るべき方法を正しく実行すれば、誰もがFIRE出来るような仕組みが出来上がりつつある。だが、そうやって今後FIREを実現する人間の半分くらいは、物欲も出世欲も無駄だと決めつけて捨て去ってしまい、半ば悟りを開いたような人々になるだろう。もちろん過度な欲や見栄は身を滅ぼしかねない。だが自分は正直、欲を全く持たない人間はつまらないと考えている。「仕事や勉強が、ただお金を稼ぐためだけの手段系」という考えが焼き付いてしまった結果だと思うのだ。そんな多くの人々が欲を捨ててFIREをひたすら目指す様を見ていると、例え見栄と揶揄されようが出世欲や物欲のために努力することは、一周回って結構なことじゃないかと思えて来るのだ。
終わりに
一度過去に見知った作品を一定期間が経過した後に見返すのは、当時と考え方が少し違うことを実感できて面白いものだ。下流の宴を読んでいると「もし林真理子氏が10年後、20年後に同じような作品を書いたらどんな訳あり家族が描かれるのか」という妄想をするようになり、これがまた楽しい。これからも他作品を貪って、林真理子ワールドにどっぷりと浸かっていくしかない。
それでは。