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雑食なエンジニアの本棚

【蔵書No. 42】怒りに容赦の無いセネカ | 怒りについて

 世の中で今この瞬間に、我を忘れるほど怒りに打ち震えて感情を撒き散らしている人はどのくらいいるのだろう。そもそも昔と比べて、怒る(または怒りやすくなる)人の割合は増えているのだろうか。はたまた、単にネットを通じて個人から発信しやすくなったから増えているように感じるだけで、分母は一切変わっていないのだろうか。いずれにしても、怒りという感情は現代に至るまでに根絶には至っていないのが現状だ。人間の持つ本能だから、と言えばそれまでかも知れない。だが、七つの大罪の一つに数えられたりと、百害あって一利なしのように思える怒りという感情。そんな怒りについて、書籍で圧倒的にかつコテンパンに叩いている人物がいる。それが何を隠そう、セネカである。「怒りについて」という非常にシンプルなタイトルが付けられている本書。沸点低すぎてすぐにカッなってしまう、沸騰石を体内に持たない人、もしくはそのような人間が身近にいる人に対しておすすめである。

読んだ本

・タイトル:怒りについて
・著者:ルーキウス・アンナエウス・セネカ

感想云々

セネカの怒りに対する考え

 「本書では怒りに対してどんな考察が繰り広げられるのか」と期待して読んだが、セネカは怒りについて悉く否定していることが分かる。人間のことを「相互に助け合うために、この世に生まれてきた」と言い表す一方で、「それに対して、怒りは破壊のために生まれてきた」と言い放ってしまうほどだ。怒りが人間の存在意義とまるで対極にあるかのような、ひどい言い方だ。そしてその怒りの矛先は、立場を問わずどんな相手にも向けてはならないとも主張しているのだ。それは相手に怒りをぶつけたとしても、ろくな結果にならないからである。セネカの言葉を借りるならば、怒りをぶつける相手が同格ならば「不安の種」をもたらし、優るならば「狂気の沙汰」であり、劣る相手ならば「面汚し」になるというのだ。セネカのこんな言葉を受け止めているうちに、読み手の怒りそのものへのヘイトはますます膨らんでいってしまうだろう。そんな人のために(かどうかは知らないが)、セネカは本書において怒りを避ける方法も提示してくれている。セネカ曰く、怒りを避けるその対処方法は「遅延」であると述べている。これは現代における、いわゆるアンガーマネジメントと同じような考えだ。ただし、現代版アンガーマネジメントにおける6秒ルールのように、単純に怒りのピークが数秒で過ぎるから我慢する、という理由だけではない。セネカ自身は怒りに遅延をもたらす理由を「許すためではなく判断するため」と説明している。急に怒りを生じさせるような事象が自身を襲った時、その場ですぐに100%を許すという気持ちの余裕は持ちづらいだろう。なぜなら、怒りには最初に激しい突進があるからだ。そんな時、セネカは「一気に怒りを取り去ろうとするな。一部ずつ摘み取って行けば、怒り全体を征服出来る」とアドバイスしている。今から二千年も前に、現代にも適用するようなアンガーマネジメントがセネカによって立証されていたとは、驚きである(というか、現在のアンガーマネジメントは、逆にセネカを大いに参考にしている気もするのだが)。

なぜこんなに怒りについて厳しい?

 それにしても、本編のあちこちで怒りについてこんなに叩くなんて、セネカはそれまでの人生で何かやらかしたのだろうか?そんなことを考えてしまう。だが歴史的な背景を辿ると、そんなスケールの小さい話ではなさそうということが分かる。セネカはおおよそ紀元前1年頃の人物であり、世は絶賛ローマ帝国の時代である。そんな時代背景もあってか、セネカが本書で怒りの引き合いとして出てくるのは、カエサルやアレクサンドロス大王などの、いわゆる権力者達だ。その当時の権力者というのは武力こそが正義であり、王座にのし上がるのももちろんのこと、その地位をキープすることにだって武力を用いなければならなかった。そんな武力もとい暴力ファーストの時代では、ある意味で人類がみなある種の野蛮性を持ち合わせていることは必然である。当然怒りが渦巻く事も日常茶飯事だっただろう(そもそもまだキリストの教えだって普及してないし...)。そういう武力の時代を生きたセネカが、怒りによる狂気っぷりを感じるのは仕方のないことであり、怒りに対して否定的になるのも非常にわかる気がするのだ。現代に至るまで読み継がれている本書であるが、書かれた当時の「怒り」の意味する狂気性と、現代で我々がイメージするような「怒り」は若干異なるということを認識しなければなるまい。

自分の「怒り」に対する見方

 本書の内容を受けて、その種類はあるにせよ、怒りという感情そのものは自分の身を守るために最低限必要ということを自分の中で再認識している。だが一方で「その怒りに任せて起こした行動は99.9%が誤り」という考えも自分の中で根強く残っている。これは単純に自分の持つ臆病さに基づいている考えなのかも知れない。自分で言うのもなんだが、自分は怒ることはあっても、それを表に出すことはほぼない。しかしそれは、何も自分が聖人であるからではない。怒りをあらわにすることは、恥ずかしいことだと思い込んでいるからだ。周りの雰囲気を気にせず声を荒げるのも恥、それによって自分の見られたくない側面を表に出してしまうのも恥。怒りに身を任せてキレてしまうことは「自分は己の感情を制御する術を一切持っていませーん!ww」と、ある種の無能さをさらけ出しているのも同然。いつしかそんなことを考えるようになったのだ。だから自分の身の回りで一度でもキレる様を目の当たりにした人に対しては、どうしても線引をしてしまう。自分がキレられたわけでもないのに、だ。「雨降って地固まる」なんて慣用句もあるが、自分の場合はキレるというのは鉄板を折り曲げるようなもの。一度折り目がついてしまったらどんなに広げようとしわが消えないように、その後どんなに良いことをしているようでも、嘗てキレた実績というのは中々消えないのだ。そういうことを考えるたびに、自分は怒りという感情に対してまだまだ理解が足りないのだなと思ってしまうのである。

終わりに

 本書を読むと、ますます怒りについてネガティブな捉え方をしてしまう。だがここまで考えたうえで、もはや切っても切り離せない感情というのも事実。一生自身につきまとう感情のはずなのに、実はそのものについてちゃんと考えたことのない「怒り」という感情。文献として残し、二千年も後世に対して怒りの危険性を叫び続けているセネカの考え方を、我々は今一度吸収すべきなのだろう。


それでは。