Tanti Anni Prima

雑食なエンジニアの本棚

【蔵書No. 44】デザインにセンスは必要? | なるほどデザイン

 企業に勤めて日常的にプレゼンの資料とかを作っていると、何故かスライドの見栄えに妙なこだわりを持つようになってくる。「なんか気持ち悪いからここ揃えておこうかな」とか「なんとなくこういう配色にしておこうかな」とか、そういった感じだ。だが、そんなこだわりにはデザイン的な説得力はあまりない。それは考えてみれば当然のことだが、自分にはデザインの知識が無いに等しいからだ。というか、もう少しマクロな視点で考えてみても、そもそも自分には美意識というか、芸術的なセンスなるものが全くない。見るのは好きであるが、いざ自分が手掛けるとなると、創作する度にそのセンスのなさに毎度毎度ため息を禁じ得ない。そんな実力もないのに自分がひとたび妙なこだわりを持ち始めると、そのうち大火傷する未来が容易に想像できる。日常的に触れる「デザイン」という領域だからこそ、少しでもそこに根拠を持たせたいなと思って手を出したのが本書である。「デザインは敷居が高くて学問として取り組むのはちょっと...」と躊躇いを感じている人や、自分のように小中学生の時に創作物を家に持ち帰ると反省会が始まっていたほどの芸術センス皆無の人におすすめだ。

読んだ本

・タイトル:なるほどデザイン
・著者:筒井美希

感想云々

メカ経験者から見た「デザイン」という概念

 デザイン初心者の自分に言わせれば、そもそもデザインとアートの違いがいまいちよく分からない。「デザイン」という、知っていそうで実はよく考えたことのないこのワードに触れると、いつもこの疑問にぶち当たる。「そっからかい」と思うかも知れないが、そっからなのだ。個人的にふわっとした認識では、駅や店の中で見るような、商品をおしゃれに紹介する広告などに用いられているのがデザイン。一方で、美術館で見るような中世の油絵みたいなものが、いわゆるアートであるという認識がある。恐らくこの認識も、あながち間違ってはいないのだろう。ただ、自分が今まで学問や仕事で携わってきた専門領域とはあまりにかけ離れているイメージだけあった。機構設計(いわゆる「メカ」)の領域...というか技術の領域に身を置いていると、とにかく求められるのは数字だ。「なぜそんな材質にしたのか」「なぜそんな寸法・形状にするのか」「そもそもなぜこの製品を作るのか」...。それらのことは、全て数字による根拠を元に語る必要がある。そこには「なんとなく」という考えは基本的には許されず、できるだけ排除しなければならないのだ。そんなメカの理詰め、理詰めの認識とデザインへの偏見が身についた状態で改めてデザインの世界を覗くと、自分がいかに「デザインは感覚的なもの」という誤った理解をしていたかが分かる。

 元来自分は、デザインとはアート同様、ほぼセンスの世界だと思っていた。視覚に訴えるという意味では、よく美術館で見るような絵画やインスタレーションとあまり変わらない気がするし、配色や構図などの采配はあくまでも属人的で、結局その人のセンス次第やんという思いが強かった。だが今回本書を読んで、デザインはあくまで「学問」なのだという認識が強くなった。アートとデザインの最も大きな違いは「そこに課題があるかないか」だ。特に課題が存在せず自由に創作していいのがアート、何か課題があってそれを論理的に解決する(できる)のがデザインである。そう定義した上で、前者のアートの世界というのは、やはりどうしても才能が必要に思える。もちろん論理的に考えることが可能な部分もあるのだろうが、それが通用しない未知のひらめきに頼らねばならない部分が大いに存在するだろう。一方で、デザインは然るべき知識を積めば、かなり再現性が高まる。属人的なものではなく、皆の手の届く範疇にあるのがデザインなのだ(ただし、その世界がアホ程奥深いのはいうまでもない)。本書によるそのようなデザインのマインドセットは、センス皆無の自分を非常にポジティブにさせるものであった。

なぜデザイン部隊とメカ部隊は仲が悪いのか

 これは自分の見渡せる限りの話でしかないのだが、モノづくりにおいてデザイン部隊とメカ部隊の対立というのは少なくない(他の領域でも同じなのだろうか)。自分が現在所属している領域でデザイン部隊と接点があるとすれば、商品のプロダクトデザインに関するものだ。デザイン部隊のアウトプットは、いつ見ても唸るほどに惹かれる素晴らしいものだ。こんな見栄えの良い商品が世の中に浸透していけば、視覚的に地味に感じる産業もたちまち華やかになるだろうと思えるほどだ。しかしその見栄えとは裏腹に、メカ側にはミニマリストのような考え方をする人も一定数いる。メカの立場からすると、第一に考えるのは顧客が要求している仕様を満たすことだ。裏を返せば、もしその商品が最低限要求されている機能・仕様を満たしているならば、そこに+αで付け加えられるものは基本的に無駄、と認識することが多い。だからデザイン部隊に出してもらったアイデアを見ても、しばらく考えると「こんなところにコストかけられないな…」となってしまう。それが原因でもめ事に発展するケースがあるのだ。これを解決する方法は、恐らくいくつかあるのだろう。基本に立ち返って最初の要件定義を再確認したり、相手の要望を推察するために会話を増やす、といった感じだ。だが恐らく最もシンプルな方法は、他分野の専門性を獲得してしまうことだ。自身がメカの領域であるならば、デザイナーの意図を汲めるレベルまでデザインの知識を身に着けるべきなのだ。相手に歩み寄ることを放棄して、100%自分の要望ベースで相手に押し付けては、出てきたものが想像と違うと「なんやこれ」といちゃもんをつける。それは、よくよく考えたら乱暴甚だしいことなのかも知れない。

「伝える」よりも「やる」が目的になっているプレゼン

 プロダクトデザインについて前述したのだが、そんな仰々しく考えずとも、デザインは日常的な業務の中にだって転がっている。冒頭で述べたプレゼン資料だってそうだ。そもそも新商品を企画するのも、設計のデザインレビューをするのにもプレゼンというものは付き纏う。最近ではパワポ以外のプレゼンツールもたくさん存在しているが、まだパワポの方が主流なのも事実だろう。プレゼンをする目的はもちろん、話し手が持っている情報やデータ、意志を相手に伝えるためだ。だがそれも、最近は形骸化してきていると思えてならない。「とりあえず情報を載せとけばいいか」というスタンスで様々な情報をスクショやコピペなりしてスライドに貼り付けて、プレゼン当日はただそれを読み上げるだけ。酷い時は、「お寺のお経かな」と思えるほど文章がスライド内に並べられている時がある。そんな状態だと、聞き手が本当に余さず理解できているのか、甚だ怪しい(というか、話し手だってきちんとかみ砕けているのか怪しい)。他のタスクが忙しくて、プレゼン資料なんかに時間をかけたくない、という気持ちも大いに分かる。だが折角技術が素晴らしいのに、伝え方がお粗末な故に、何もワクワクしてこずプロジェクトの推進も開発のモチベも全然上がらないこともあるだろう。そう考えると、プレゼンに割く工数を渋っていることよりも、非常にもったいないことをしている気がするのだ。だが、ひとたび話し手がデザインのノウハウを覚えるとどうなるだろうか。
相手によりよく見せるためのデザインのツールを知る度に「あれも試してみよう」「これも試してみよう」と実験的なモチベーションが上がるに違いない。何より、デザインのおかげで情報が整理されて相手により伝わるようになる。相手の理解が上がることで、より深い議論も可能になるのだ。いいこと尽くしではないか?プレゼンという世に大量に出回っているのに今や無機質な感じになっているイベントを、デザインという味付けで活性化させるいい機会かも知れない。

終わりに

 デザインというと身構えてしまいそうだが、本書は限りなくその先入観を無くしてくれる(というか、本書にもそういうハードルを下げるためのテクニックが施されているのだろう)。ひとたび知識を身に着けることが出来たら、日常的に目に飛び込んでくる全ての物にデザイン性を探す目が養われていきそうだ。徐々に世界が変わっていくのを体感できれば、今後さらにデザインを学ぶモチベーションに繋がっていくだろう。


それでは。